2017年3月26日日曜日

兼業尺八家・山口籟盟

こんにちは、山口です。
東さん、大庫さんに引き続き、あらためて自己紹介をさせていただきたいと思います。


 僕は「兼業尺八家」であり、普段は福岡県の小学校教員として働いています。
公務員ではありますが、「伝統芸能」枠で正式に許可を得て兼業しており、久留米市を拠点として演奏・教授活動をしています。




 尺八を始めたのは12歳の時でした。
地域のおじさんが、お宮のお祭りで神輿の笛を担当していた僕に「日本の笛に興味があるなら、尺八を習ってみんね」と声をかけてくださったのがきっかけです。
現在、35歳ですので、始めてから現在まで23年間、尺八を続けてこられたのは、本当にありがたいことだと感謝しています。


僕の出身地は、北九州市近郊の郡部なのですが、北九州市はかつて「北九州工業地帯」としておおいに栄え、新日鉄などには尺八のクラブなどもあって、12歳のときに入門したその先生はそこで尺八を始められたのだそうです。その方は都山流でしたが、お宅には山口五郎先生の「尺八のおけいこ」のテキストブックがあり、「この人が日本で一番尺八が上手な人だ」と教えてくださったのが記憶に残っています。


 ただ、少年時代の僕は、実は「シャクハチ」なる和楽器を見たことも聴いたこともなく、先生宅で初めて実物を見たときは、「笛」という語感からあまりにもかけ離れた、節くれだったイボイボのあるその外観や、なんとも言えない音色に絶句しました。それなのに始めたのは、単純に「断れなかったから」です。



僕の実家は完全に洋風建築で、イスとテーブルの生活であり、畳というものがありませんでした。父はクラシックやビートルズを始めとする洋楽が好みで、そうした音楽を日々聴いて育ちました。先生宅での稽古は「正座」でしたが、本当に正座が持たず、「あぐらかいてもいいよ」と言われても、その「あぐら」がかけませんでした。よく、海外の方が来日されて「あぐら」をかいているとき、股関節が硬くて、半分「体操座り」のようになっている写真などがありますが、まさにそんな感じでした。「あぐらは楽」という認識は、当分自分の中には生まれませんでした。


そんな、「尺八」や「日本文化」に対して前向きなイメージが持てない僕の認識が変化したのは、中学3年の夏休みに、町の教育委員会の派遣で、2週間オーストラリアにホームステイしたことがきっかけでした。海外に出てみると、あらためて「日本の良さ」がよくわかるものですね。もちろん、オージービーフのステーキも味わっていただいたのですが、向こうの食生活にどっぷり浸かった後の帰国間際には、「和食って美味しい」「日本茶って、おいしい」と心から感じました。



 そのホームステイ中、現地のハイスクールとの交流会があり、そこで尺八の演奏をする機会を得ました。曲は「八千代獅子」。尺八のみの独奏で、自分自身が曲そのものをよくわからないままとにかく夢中で演奏したのですが、オーストラリア人の同世代の生徒から歓声と熱烈な拍手をもらったときには、本当にうれしかったです。「ああ、この日本の音楽って、『いい』って思ってもらえるんだ」と初めて気付いたんですね。この体験が、日本文化、尺八、とりわけ純和風で伝統的な要素に強い興味を持つようになった原動力になっていると思います。




高校生になると、ギターやロックにはまり、一時期尺八とは疎遠になったりもしました。そのとき、ブリティッシュ・ロックから、いわゆる「プログレッシブ・ロック」へと興味が進行し、クラシックや東洋音楽などの要素を取り入れた、変拍子や特殊なコード、長い演奏時間といった特徴を持つ楽曲もよく聴きました。「イエス」とか「キングクリムゾン」とかですね。今でも好きで、時々聴いたりします(その辺りの経験も、地歌箏曲の20〜30分という曲の長さを苦痛に感じない一因になっているのかなと、今更ながらに感じています)。LPレコードに凝って、中古レコード屋に入り浸ったりもしました。ただ、ギターの方はモノにならず、久しぶりにたまたま手にした尺八の方が思い通りに演奏できることに気づいたこともあって、再び尺八を練習するようになりました。


その頃出始めた「古典ライブラリー」というカセットテープを買って、それに合わせて演奏したりもしました。高校時代にバンドを組んだりとかがうまくいかなかった反動(?)が、三曲合奏の方へ向かったような面があったように思います。「合奏するって、楽しいな」と気付きました。中学時代に芽生えた「日本文化」への関心が発展して、夏目漱石に傾倒し、和服を着始めたりもしました。




漱石への憧れも手伝って、熊本大学に進学し、大学時代の4年間は、アルバイトの時間を除いて全て和服で通しました。邦楽部に入部し、部室で出会った邦楽ジャーナルの通販で、山口五郎先生のCDを買いました。衝撃でしたね。こんな素晴らしい尺八の音色や演奏があるのか!と。学生邦楽のイベント「学フェス」で、全国の学生の琴古流尺吹きとも出会い、決心して琴古流に転じました。


 琴古流の中でも、憧れの山口五郎先生の「竹盟社」の芸をお習いすることができるようになったのは、大学2年生の冬、「学フェス」の姉妹イベントの「尺八講習会」に参加し、そこで師匠の吉村蒿盟先生とお会いしたことがきっかけでした。それから大学を卒業して関西へ移住するまでの2年半、毎月夜行バスで熊本から関西までお稽古に通いました。アルバイト代は、交通費や青譜、その他もろもろの尺八関連にほとんど全て変化しました。自分の心から愛する音楽を習えるということに、心が踊るほどの幸せを感じました。


大学卒業後は「プロ演奏家」を目指して関西で本格修行を始めましたが、結果としては教員採用試験を受け、教職という「本業」を持った上で尺八の活動を行っていく方向に落ち着きました。いろいろ悩みましたが、本業で生活の面の安心感を持った上で、自分の本当に大好きな尺八本曲や地歌箏曲を中心に据えて演奏活動を行っていくというのは、僕の性格に合っている一つの道なのかなと思っています。関西で活動を続けていくつもりでいたのですが、祖父母を亡くしたときの自分の両親の様子を見て、親元の近くに戻りたいという心境が生まれ、10年間の修行期間を経て師範を許されたのち、地元福岡県に戻りました。

【籟盟の尺八稽古帳(山口籟盟のブログ)より、「最後のお稽古」】



出身県が福岡であるとはいえ、関西で修行を積んで戻ってきた私にとっては、芸の上では「アウェイ」な地。知名度も人脈もほぼゼロに等しく、帰郷してからの5年間という期間は、自分でも挫けそうになるほどに無力感を感じる日々でした。 帰郷時に自分の中にあった青写真は、それこそ師匠をモデルとした、週に数回程度お稽古をし、お糸の先生方との関係を築き、自分の社中を基軸にした温習会や演奏会を活発に行っていく、という伝統的なものでした。修行地・関西では、師匠はもとより、たくさんの御社中でそのような光景を目の当たりにしていましたし、「きちんと本物の芸を追求していれば」そうした道が開けていくのは自明のことであると信じていました。 


しかし、この5年間をかけて、入門者減・高齢化の急激な流れは、現在進行形、いや加速度的に進行しており、もはや歯止めの効かない段階に来ていること、そしてかつての自分をはじめ、主に都市部での体制が安泰である御社中にあっては気づくことができない、もはや「手遅れ」といっても過言ではないような状態に事態が進行していることに、否応なく気付かされたのです。それは、地方に下り、芸の上で師匠の後ろ盾のない単独の状態であれこれ試していくうちに痛感したわけですが、今ではそうした現実に気付くことができた自分の今の立ち位置に、心から感謝をしています。


 そこで試みたのが「web演奏会」という、自分の演奏動画をYouTube、Facebookで公開する取り組みです。その詳細や、そこからオンラインで三曲合奏を行う「ジョイントweb演奏会」、さらに「而今の会」へと発展していったことは、以前の記事でご紹介した通りです。
【「而今の会」への思い(山口籟盟)】



 「新しい曲」「よく耳にする曲」を演奏して、和楽器に興味を持ってもらおうとする活動は、たくさんの方が一生懸命取り組んでおられます。僕は、そうした活動も素晴らしいし、とても大切だと思います。しかし、僕が活動の主軸にしたいのは、伝統的な三曲合奏の素晴らしさを、「新しい方法」で、より音楽的・芸術的な魅力が発揮されたかたちで発信していくというスタイルなのです。そのために、今一番心血を注いでいる活動が、僕の場合この「而今の会」なわけです。本当に僕は、心からワクワクしています。大庫さん、東さんとご一緒に、三曲ができる8月18日を、心待ちにしています。これからも準備に邁進していきますので、どうぞみなさま、当日を楽しみにしていてください!!

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